能が息づく町をめざして
山田薫さん(やまだ かおる) 能楽師
◆能楽との出会い
能と狂言を合わせて能楽という。能は悲劇性が多いシリアスなミュージカル的演劇、狂言は会話劇の喜劇である。700年続く世界最古の音楽劇であり、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている。無駄を削ぎ落とし、「動かない一歩手前」を重視する独特の表現様式で、わずかな所作や間(ま)に、深い意味が込められている。能を見たことがない人でも、女性の嫉妬と恨みを表現した怨霊の面である般若面を見たことがあるだろう。般若面は能で使う面の一種である。
能楽師の山田さんはいわゆる家元筋ではなく、一般家庭に生まれ育った。ただ母の影響でクラシックに親しみ、祖父母宅にあった百科事典で芸術家・音楽家の名に触れて育った。また沖縄音楽にも感化され三線(さんしん)を購入し練習に励んでいたこともある。その意味では、日本の伝統文化には興味があったといえる。
なかでも小学6年生の頃、映画『陰陽師』の主役をつとめた狂言師・野村萬斎に大いに感化されたという。さらにテレビの狂言企画に影響され、能楽に興味を抱くようになっていた。ちょうどそのタイミングで、地元の伊丹ホールで能楽の子ども教室に参加する。
中学では、笛・太鼓など四つ囃子を一通り学んだ。子ども教室卒業後の高校時代も個別稽古を継続し、高校3年で大阪能楽養成会に入学する。師匠・専門未定のまま全分野の稽古に参加する異例の出発となった。山田さんはこの時すでに将来は能楽の世界に身を置く覚悟を決めていた。両親も特に反対はしなかったが、理解を得るため大学へ進学し両立をはかった。
大学2年生目前、人間国宝・大槻文藏氏からシテ方(してかた)の打診を受ける。シテ方とは、能楽において物語の主役である「シテ(仕手)」を演じる専門家グループのことである。それまで主役ではなく笛・太鼓などの囃子方(はやしかた)の稽古を主にしていたため、シテ方打診は青天の霹靂であった。しかし何といっても大槻氏からのお声掛けである。最初は戸惑ったが、最後には「分かりました。よろしくお願いいたします!」と意を決した。
◆書生・内弟子時代
19歳で観世流シテ方として大槻家に入門する。内弟子は、稽古だけに専心するのではなく、舞台掃除から小道具、作り物、後片付けまですべてを担う。師匠や兄弟子が懇切丁寧に一から教えるようなことはない。そのなかで楽屋の観察から所作・段取り・師匠の動きを先読みして動く必要がある。不具合の責任は内弟子に帰するという厳しいものであった。
ただ山田さんは、厳しさは「できない自分と向き合う」契機と捉えた。現在も第一線で伸び続ける師匠の背中から学び、「役者は根性」を座右の銘に粘り強く修行していく。兄弟子の舞台を惜しみなく手伝いしていくうちに評価を得るようになり、装束付けを任されるまでになった。
本格修行を経て独立したのは28歳のときであった。現在では、大阪を拠点に東京・北海道など全国で活動を広げている。弟子も1名育成し、自身がかつて望んでいた支援を今度は後輩に伝えていこうとしている。
◆普及活動「やってみなせ」と今後
独立を決心した理由の一つに同級生との結婚があった。子どもが生まれたころ、子育てとアクセスを考慮して島本町に転居する。住みやすく歴史もある町で、能の接点を増やそうと決意する。
水無瀬神宮の協力を得て、令和7年3月には、客殿を稽古場に「能楽 やって水無瀬!」を開催する。難解で取っ付きにくいイメージを払拭するため、能の演技の根幹である「舞」と「謡(うたい)」、能の音楽を司る「囃子」を実際に体験するワークショップや、能面の展示など、楽しめるよう工夫を凝らした。水無瀬神宮にチラシを置いただけの宣伝にもかかわらず十数名が来場し、手応えを感じている。またこの催しをきっかけに、一時的にではあったが弟子(生徒)も生まれた。
「島本町に行けば能が見られるようにしたいですね」と抱負を語る。水無瀬神宮に限らず若山神社、ふれあいセンター、歴史文化資料館などでの上演や、薪能(たきぎのう)を開催したいと考えている。自身がお酒好きでもあり、「お酒のイベント」と能を絡めた企画に意欲的でもある。「観客がお酒を楽しみながら鑑賞するのもいいですね」。
山田さんは、本来のんびりした性格だが、能のために日常から所作・立ち居振る舞いを意識している。スイッチを切ると再稼働に時間がかかることを痛感したことがあったからである。オンオフを曖昧に保つ方が規則正しい生活を保つことにつながるという。
地道な鍛錬を重ねながらも、能の魅力を伝える活動に取り組む、山田さんのその真摯な姿勢に敬意を抱いた。
※薪能……野外に臨時に設置された能舞台の周囲にかがり火を焚いて、その中で特に選ばれた演目を演じる能楽

