今月のこの人。熊澤 良尊さん(駒師)

今月のこの人。熊澤 良尊さん(駒師)

水無瀬駒を追い求めて

熊澤 良尊さん【くまざわ りょうそん】 (駒師)

■寝る間を削って

 滑らかな木地にふっくらと品のある漆黒の「玉将」の文字。将棋駒作家・研究者の熊澤さんが作り上げた「水無瀬兼成卿倣駒(みなせかねなりきょうならいこま)」だ。水無瀬神宮に残された将棋駒に魅了されたその人の工房(木津川市)を訪ねた。

 熊澤氏の駒作りは29歳の時、初めて目にした高級駒に始まる。先輩の持つその駒はまるで宝石のように美しかった。欲しくて駒作家に制作を依頼するもなかなか出来てこない。そこで自分で作ろうと思った。

 仙台出張の際、駒の産地として有名な天童市に立ち寄り工房を見て回った。技法はもちろん教えてくれない。材を手に入れ、記憶を頼り試行錯誤の末に完成させた第一作目の駒、それが将棋の師匠の目に留まり、中原誠名人と加藤一二三九段の記念対局に使われたというから、その完成度の高さがうかがえる。以後、駒作りの楽しさにのめり込んでいった。

 当時は会社勤めの傍ら寝る間を削っての制作であったが、好きなことなので苦労と感じたことは無かった。33歳の時、作り手の裾野を広げようと「駒作りを楽しむ会」も創設し技術を惜しみなく伝授した。

■水無瀬駒と出会う

 良い駒があると聞くと足を運び見識を広げた。34歳の時、水無瀬神宮に古い将棋駒があることを知り、伝手を頼って拝観が叶った。ひと目見るなり惹きこまれた。安土桃山時代の公家、水無瀬兼成の直筆の駒である。姿・文字が端正で他とは全く違っていた。駒人生の転機となった。

 「今の人は盛上駒(もりあげこま)(注)が一番上等と思っているでしょ。でもこれは明治以降に出来た技術。理想は能筆な公家の直筆の駒なのです。直筆の文字にはその人の人格や素養がそのまま出ます。修練も要る。おいそれと書けるものではありません。兼成さんの字は理想です。」

 驚く発見もあった。水無瀬神宮を訪問した時、「将棋のことで訪ねてこられる人はあなたが初めて。こんなものもある。」と言って宮司が奥から古文書を出してこられた。兼成の「将棋馬日記(しょうぎこまにっき)」。総数737組の駒の注文主として、家康はじめ時の武将や公家の名前が並ぶ史料に衝撃が走った。すぐさまレポートをまとめ、翌年(昭和53年)雑誌に発表した。それまでは一部の好事家しか知らなかった水無瀬駒について、その歴史的価値が、熊澤氏によって初めて明らかになった。

 平成21年に、駒と関連資料は島本町指定文化財の第一号に指定される。このときも熊澤氏は冊子制作の監修など惜しみない協力を寄せた。

 「水無瀬」の名は現代、駒の書体(フォント)名として使われていて、私たちはプラスチック駒などでも目にすることがある。ところがこれはルーツ不明の書体なのだという。「本来の兼成さんの筆跡とは姿が全く違います。時代もせいぜい明治までしかたどれず出所がはっきりしません」

 水無瀬神宮所蔵の実物は非公開だが、町の歴史文化資料館に熊澤氏作製の渾身の写し駒(レプリカ)が常設展示してある。ぜひその風格有る駒と書体を見てほしい。

■文化や美術としての将棋

 将棋界はいま若手棋士の活躍などの話題に沸くが、熊澤氏は、勝った負けたのゲーム性ばかりを重視する昨今の風潮の中、文化や美術としての将棋の魅力への関心が薄れていっているのを危惧する。「経済効率を求める中、将棋博物館も平成18年に閉鎖されてしまいました。将棋には豊かな歴史や文化があります。皆さんに知ってほしいですね」

 令和6年12月には、SMALL主催で「駒の匠が語る 関ヶ原武将が競って手にした水無瀬駒」と題したイベントを開催。熊澤氏による解説に加え、ふだん非公開の兼成卿の手による「水無瀬駒」と関連資料(実物)を見学、さらには今回のみ限定製作された熊澤氏作の兼成卿倣い駒の特別頒布もあり、好評を博した。参加者の半数以上は町外からで、遠くは東京や埼玉など関東圏にまで及んだ。

 関西将棋会館が高槻に移転し、将棋ファンが北摂を訪れる機会も増えている。隣町の島本町の私たちは、天下人をも魅了した水無瀬駒の発祥の地として、その歴史と魅力を知ること、そして発信し続ける大切な役割がある、と熊澤氏のまっすぐな生き様を聞きながらひしひしと感じた。

(注)盛上駒:タイトル戦などに使われる高級駒で、漆の文字が盛り上がっている。手本となる能筆家の筆跡を木地に写して彫り、そこに漆を重ねる工程を経て作られる。

取材・文・撮影 – SMALL編集部