地域に愛されて160年

地域に愛されて160年

〜今月のこの人〜

小林 則之さん

◆父親の作戦勝ち

小林酒店の創業は慶応元年(1865年)というから150年以上の歴史がある。元々は高槻市の原地区で酒造所を営んでいた。当時、淀川に橋はかかっていなかったため、向こう岸に行くために渡し船でお酒を運んでいた。昔は100軒ほどあった酒造所も、現在では2軒だけとなっている。

 4代目店主の小林則之さんは、子どもの頃から酒屋を継ぐ気持ちは全くなく、学生時代は大好きな音楽活動に明け暮れていた。ある時、酒屋のアルバイトをしてみないかと知り合いから誘われた。意外とおもしろく酒屋で働くことに生きがいを感じた。いま考えてみると、父親が自分のお店を継いでほしいために知り合い経由で声をかけてもらったのかもしれない。父親の作戦勝ちである。

 結局24歳の頃、父親と一緒に働くことになった。酒屋の仕事は午前中は各家庭を訪問する御用聞き、午後は配達である。他の酒屋と比べると売上が低いのを懸念した小林さんは一念発起する。父親から昔の顧客台帳を預かり、かつての顧客を回ることにした。同業他社に乗り換えていた顧客のもとへ足繁く通い、信頼関係を築いていった。その想いが伝わったのだろう、少しずつではあるがかつての顧客が小林酒店に戻ってきた。

 価格で勝負していた時期もある。しかしそれではより安い酒屋へすぐに移ってしまう。いつの時代でも顧客は移り気なものである。「よし、価格ではないところで勝負をしよう」。商売として関わるのではなく、友人関係という形で信頼を築いた。信頼で結ばれた絆はそうそう裁ち切れるものではない。少々の無理を聞いてくれる顧客が多くなっていった。その経験が誇りとなり今の自分を支えている。

 30歳の時に父親が急逝、4代目として小林酒店を継いだ。亡くなった父親の土地がけっこうあったため、恐ろしいほどの相続税がかかってしまった。「これはやばいと思いましたね。がむしゃらに働いてなんとか返済することができた」。地道で粘り強い小林さんだからこそ乗り切れたのだろう。

 

◆日本酒へのこだわり

小林さん自身無類の日本酒好きである。それが高じ日本酒の量り売りを新しく始めた。60万円もする冷却タンクを購入し、そこに日本酒サーバーを置くことで適温を維持できる。そのため、品質が落ちることがなく、おいしい状態で保つことができる。他にも甕(かめ)に生の焼酎を入れての量り売りや、珍しくておいしい銘柄のお酒を置くなど、他店にない付加価値をつけるのが小林さんのこだわりである。他の酒屋から「ウチのお酒も置いてほしい」とお願いされるようになった。

 米にもこだわりがあり、店舗に精米器を導入し玄米を精米し販売している。一度精米してしまうと生鮮食品のようにおいしさがどんどんなくなっていく。そのため、その場で玄米を精製することで新鮮な米を販売している。米は1キロから販売しているため、一人暮らしや老夫婦など、あまり量を多くいらない方に、買ってもらいやすい。地域の方が小林酒店に来てもらうような店づくりを常に目指しているのである。

 新酒造りにも携わっている。近江米「日本晴(にほんばれ)」で造られた無濾過生原酒の「ハレルヤ」は、自信をもって進められる逸品である。お酒の名前「ハレルヤ」は公募で決めた。自身もゴスペル音楽で「ハレルヤ」は聴いたことがあるので、米の「日本晴」とも通ずる名前にピンときたという。応募者になぜハレルヤなのかと聞くと、「空が晴れていたからです」との回答に、一瞬きょとんとしたが、シンプルでいいネーミングを考えてくれたことに感謝しているという。

◆地域とともに

仕事一筋と思いきや地域での活動にも熱心である。商工会青年部や消防団で要職をこなしてきた。消防団では心が鍛えられ、困っている人がいたら助けようと感じるようになり、ボランティア精神が身についた。

 30代の頃はバンド、商工会、消防団など、一時期は7つも掛け持ちしていた。「常に動いていないと死んでしまいますね」。友人からそう言われたが、自分でも得心している。これだけ活動していれば、家にはほとんど帰ることはない。子育ても家庭もすべて奥さんに任せた。今では感謝の念でいっぱいである。

 平成26年、創業150年を機に新装オープンした。「もっと多くの方にお酒のおいしさ、人が集う大切さや楽しさを知っていただけるように」と、イベント開催や自由で楽しい時間を提供するために、2階に「フリースペース」を設けた。さまざまな団体が利用しているが、自身も定期的にライブイベントをしている。

 地域に愛され、地域の人を大事にする小林酒店。店主小林さんは仕事に地域活動に今日も全力疾走している。

取材・文・撮影 – SMALL編集部