「厨房で倒れるのが夢やね」

「厨房で倒れるのが夢やね」

〜今月のこの人〜

鍵原 和男さん

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喜ぶ顔がみたい

「常連さんが喜ぶ顔をみたいんです~」

とニコニコ話すのは、「かぎ卯」3代目店主鍵原和男さん。人気店を見つけては食べにいくというフットワークの軽さが鍵原さんの持ち味だ。それがメニューの豊富さにつながっている。「ちょっとこれ試してみて」。取材の日、席に着くなりそう言われた。「どう? いけるかな?」。現在試作中の出汁である。

その人懐っこい軽妙洒脱な語り口は、人を飽きさせない。まさに“人たらし”といえよう。二十歳以上も年下の出入業者から「これはあかん。もっとこうしたほうがいい」と注文をつけられても、へこたれない。努力家でもある。

そういう飾り気のない人柄が、人の縁につながっている。「師匠! うどん屋をしたい!」と、小学生の男の子からも慕われている。

気がつけば、大病もせず半世紀近くこの店を守ってきた。

「『継続は力なり』といいますが、それなりになんとかご飯食べていけてるし、それはありがたいなと思います」

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鍵原さんは島本生まれの島本育ち。芝居小屋に通った少年時代、野球に明け暮れた中高生時代を経て、母の勧めで大学へ進学。学生時代は喫茶店、ビアホール、旅館でアルバイトをしていた。

卒業後は小さな商事会社を受けるも試験が難しく失敗。「これはもうやっぱりうどん屋せなあかんな」と、かぎ卯を継いだ。細く長く倒れるまで働きたい。「旧西村亭の大将も厨房で倒れた。それに習いたい。『厨房で死ぬのが夢やね』」。

業務のかたわら、椎尾神社の氏子、社会人野球、商店街(共栄会)、消防団の一員として地域と関わってきた。平成7年の阪神淡路大震災の際には、ケガ人を運んだこともある。現在でも安全ボランティアとして、毎朝子どもたちの元気な姿を見守ったり、まちづくりの会議に積極的に参加している。

古くからある歴史

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かぎ卯の歴史は、大正時代に遡る。大日本紡績山崎絹糸工場の建設工事の際、曾祖父にあたる初代鍵原卯之助がすでに工事関係者の食事の切り盛りをしていたという。同じころ寿屋(現サントリー)山崎工場も着工している。昭和の初めには、文豪谷崎潤一郎が『蘆刈』の取材時にかぎ卯を訪れ、きつねうどんを食した。

 大日本紡績の女工さんだけでも3千人。そのため、下駄屋、八百屋、自転車屋、カフェ(後の旧西村亭)などがあり、工場関係者の往来でにぎわっていた。今では想像だにできないが、島本町でもこの一帯がいちばんの繁華街であり、西国街道はまさにメインストリートであった。

「かつて30軒近くあった共栄会も現在は10軒を切るまでになってねえ~」。陽気で饒舌な鍵原さんも、この時ばかりは寂しそうだった。

とはいえ、かぎ卯はまだまだ活気がある。昼間の営業終わりでの取材であったが、終わり近くになっても、ぞくぞくとお客さんが入り、予約の電話が鳴る。常連客だけではない。ハイキング帰りのお客さんはもちろんのこと、コロナ禍前はサントリー見学を終えた外国人も入店していた。

お店は十数年前に改装した。白壁と茶色を基調とした落ち着きのある和モダンとなっている。窓の格子がいいテイストを醸し出している。「こんな場所で会議ができたらいいですね」と思わず口走ったところ、とたんに「そんなん遠慮せんと、ここでやったらええんやで~」と笑顔で答えてくれた。

「定休日に準備が整えば、コワーキングスペースとして貸し出してもいいなと思っています」。夜の営業時間は午後8時と意外と早い。「カウンターもあるし、夜にスナックをやりたい!」という声もある。

かぎ卯は今後もこの島本を引っ張るチカラを持っている。一度足を運んでみよう。こんな声が聞こえるかもしれない。

「師匠!」

「はいよ!」

取材・文・撮影 – SMALL編集部