帰ってきたフランス仕込みの画家

帰ってきたフランス仕込みの画家

〜今月のこの人〜

加國哲二さん

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島本からパリへ

芸術の都パリ――。なんという心地いい響きだろう。我々市井の人だけでなく、芸術家にとっても憧れの地。しかし、そのパリを離れ、島本町に戻ってきた人がいる。山崎在住の洋画家・加國哲二さん。今回の主人公その人である。

「芸術家」への取材と聞いて、我々は身構えていた。「偏屈で頑固な人物」「浮世離れした変わり者」「天才肌の感性で生きる人」。だがその予想はみごとに裏切られる。その正体は、島本町をこよなく愛し、銭湯「昭和湯」に毎晩通い、大きな声で快活に笑う、おしゃべりが大好きな、ジャズ好きの、下町のおじさんだった。

加國さんは昭和35年(1960)、まだまだ田んぼの広がる島本町山崎で生まれた。ヘビをぶんぶん振りまわす友人たちと遊んでいた少年は、中学生の頃になると、ピカソやマティス、美術の山崎先生の作品に感銘を受け、画家を志すようになった。

昭和59年(1984)に大阪芸術大学を卒業後渡仏。パリへ移り住み、アカデミー・ジュリアンで学んだ。この時、パリ在住の洋画家・奥村光正氏と出会う。弟子をとらないことで有名な奥村氏の目に留まり、唯一の弟子として修行することになった。その後、新進芸術家を積極的に紹介するサロン・ドートンヌや美術の登竜門ル・サロン等に出品、いくつかの国際的な展覧会で受賞するなど着実に実績を重ね、20年近くパリで過ごした。

このように書くと、画家として華々しくデビューし、順風満帆の生活を送ってきたと思われるだろうが、決してそうではない。

「個展をしてデビューしたんですが、まだ食べていけないですからね。アルバイトでコーディネーターやってたんです」。

NHKの取材における通訳兼コーディネーターとして、平成10年(1998)のフランスで開催されたサッカーワールドカップにも関わった。ディレクターに特に気に入られ、北アフリカの死の三角地帯と呼ばれる場所におもむき、小銃を持つイスラム原理主義者への取材を敢行したこともある。

島本だから帰ってきた

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ではなぜパリから帰国したのだろうか。「生まれ育ったのが東京や大阪市内やったら、ずっとパリにおったと思う。パリなら一生住んでいてもよかったけれど、島本だから帰ってきた」と断言した。「大阪弁のシャレも通じるし、なにより昭和湯もあるしね」とニヤリ。現在は島本町を中心に絵画教室を開催している。また自身も大丸京都店で個展を開くなど、創作活動に余念がない。

そんな加國さんの描く作品は、温かく光に満ちた優しさを感じるものが多い。作品を見て心から感動したことを伝えると、「ありがとう! もっと言って!」と無邪気に笑った。そのけれんみのない素直な喜びように、確かにあのあたたかな作品を生み出した人物なのだと納得させられる。

地域を盛りあげるための取組にも熱心だ。しまもと交流プラザの副代表を務めるほか、地域、学校、PTAが協力し、第一小学校の教育環境の向上をめざして設立された「一小応援団“和(なごみ)”」の実行委員として、アートフェスタに尽力している。手形アートとして子どもたちと巨大な桜の樹を描き上げた模様は、NHKなどでも取り上げられた。

「コーディネーターで取材する側にいましたからね。どんなことが興味もたれるか分かるんです。メディアの取材を受けたければ、他と同じようなことをしていてはいけない。尖ったことをする必要があるんです」と語る。

他人や社会の価値観にとらわれない自由人

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趣味であるジャズを生かして、和(なごみ)の「教養講座」と題し、広瀬にある小林酒店2階のフリースペースで、LPレコードコンサートを開催したこともある。

「ジャズ界の巨人マイルス・デイビスのエレクトリック時代のLPを大音量でかけるんです。もうぐちゃぐちゃですよ」。

先鋭的なジャズの流れるなかで、同好の士であり哲学者の弟・加國尚志さんと二人でトークセッションを行うというまさに“尖った”企画である。「電気マイルス」と名付けたその企画は、チラシも自分で描いた。

SNS(インスタグラム)では、気の向くままにレコードのジャケットなどをアップする。「たとえ見てほしい相手が二人ぐらいでも、その二人が“いいね”と評価してくれたら満足。多くの人にウケなければならないという強迫観念は必要ないです。そこから“自由”にならないとね」。

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他人や社会の価値観にとらわれない自由さ。さすがフランス仕込みである。自由な発想とあたたかな心が織りなす感性で、島本町という広大なキャンパスに、加國さんは今日も縦横無尽に描き続ける。

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取材・文・撮影 - SMALL編集部